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「ニコトコ島はどこにあるのか?」

金子遊(映像作家・批評家)


 大力拓哉と三浦崇志による映画作品の作風を説明するのはむずかしい。映像ユニットを組む2人組だが、ユニット名はない。大阪府出身で小学校からの幼なじみの2人が出演し、映画のなかでは大阪弁で軽妙なダイアローグをくり広げる。前衛的なお笑い芸人の影響でもあるのかと思うが、対話の内容は禅問答か哲学的な存在論のようだ。相原コージや吉田戦車などの不条理ギャグマンガの世界を志向しているのかと勘ぐるが、ロングショットを多用する精緻な絵づくりは芸術的な映画のそれに近い。それでは、彼らはアキ・カウリスマキ映画のなかのレニングラード・カウボーイズのようなオフビートな存在だというのか。何かその形容もぴったりしない。結論からいうと、2人の才能を他の誰かと比べることはムダな努力に終わるだろう。彼らの映画作品はきわめてオリジナルなものであり、突然わたしたちの前に差しだされた現代の寓話といった趣きなのだ。
 フランツ・カフカの「家父の気がかり」という掌編小説に、オドラデクと呼ばれるふしぎな物体[オブジェ]が登場する。星形の糸巻きのような形をしていて、グチャグチャと糸がもつれ合っている。二本足を持つかのように立つことができ、家の玄関や階段や屋根裏部屋に現われては、ジッとしている。すばしっこいので、捕まえることはできない。名前をたずねると「オドラデク」と答え、どこに住んでいるのかを聞くと「住所不定」といってカラカラ笑う。主人公の「わたし」はそれ[ヽヽ]が死ぬことなく、子や孫の代になっても出てくるのではないかと心配しているのだ。
 人間は物ごとに意味を求める動物である。オドラデクのように、わかりそうでわからないものがあると、それに好奇心をそそられ、必死でその秘密を解明しようとする。あるいは、作者の意図やその作品にこめられた真意を探ろうとする。澁澤龍彦によれば、オドラデクは完全に無意味な存在であり、それゆえにわたしたちを途方に暮れさせるのだという。その意味に考えをめぐらせても、虚無のなかに放りだされるだけだ。それは何かの象徴や寓意ではない。その裏側に意味や文脈はない。「だから、この物体は現象によっては何としても説明がつかず、また説明がつかないから一層刺激的なのだ」。ナンセンスをナンセンスとして楽しむ必要があることを澁澤は言おうとしたのだろう。そんな簡単に思えることが、わたしたち現代人には案外とむずかしい。

 大力拓哉と三浦崇志のユニットよる映画作品は、オドラデクのような物体[オブジェ]だと考えればいいのではないか。『ニコトコ島』(08)では、大力と三浦に松田圭輔を加えた3人の若い男たちが、フェリーに乗って謎の島へと旅をする。フェリー上で子どものような遊びに興じる姿には、少し異様な影がつきまとう。どこか、いい大人になっても、ぶらぶらと遊んでいる社会からはみだした者たちのように見える。それゆえ、彼らが遊びに夢中になっている姿は、エレクトロニカ調の音楽と相まって、大人が少年時代へ退行している雰囲気をかもしだす。フェリーがとりあえずの目的地である島に到着するまでの間延びした時間には、ニヒリスティックな暇つぶしといったニュアンスが漂う。
 ニコトコ島と思われる島に到着してからの道行きが秀逸である。いったい地球上のどこで撮影したのかと思うほどの絶景が広がる。岩山、草原、森、火山の噴煙と思われる火口などを、スタンダードサイズのモノクロームの映像で切りとっている。固定カメラによる超ロングショットを多用し、人物は豆粒のように示されることが多い。ふつうであれば、このようなショットは圧倒的な自然に対して、人間存在の小ささや弱さを表現する場合に有効だ。しかし『ニコトコ島』では、そこにオフヴォイスで(観客のすぐ横で話しかけているかのように)3人の大阪弁によるおしゃべりが被せられる。登場人物の遥けさとその声の身近さが、矛盾した視聴覚空間をつくりだし、観ている者にめまいをおぼえさせる。仲間のひとりの大力君が毒草を食べて死んでも、残りの圭ちゃんと三浦君の2人は「死ぬときはすぐ死ぬもんやなあ」「ぼくらもいつ死ぬかわからへんで」「仲良くせなあかん」「もっと遊ばななあ」と話しながら歩き続ける。有限の生を持つ登場人物ではなく、オドラデクのように彼らの死後も存在し続ける、山や岩や砂や土といった無機物からなる自然の風景こそが、この映画の真の主役だったのではないかと気づき、ハッとさせられる瞬間である。

 モノクロームの映像にこだわってきた大力拓哉と三浦崇志が、はじめてカラーに転じた『石と歌とペタ』(12)を観ると、2人の作品が映画というよりも美術でいう「オブジェに」近いことがわかる。この映画には、小学校からの幼なじみの2人が遊びの延長から一緒に映画をつくりはじめたというルーツがよく感じられ、シナリオを書かずに即興性にこだわったという点でも、さらに自在さが増している。「石」と「歌」と「ペタ」と名乗る3人の男たちは、ゆるい大阪弁の会話でおかしみをたたえながら、『ニコトコ島』から一歩進んだ試み、つまり目的地をまったく定めない旅へと出る。雨のなかを車のなかで出かけたり、道に迷ったり、プロットらしきものがなくはない。しかし、映画の大部分を占めるのは、大人の男たちが森や道ばたや車のなかで、少年期の遊びに興ずる姿であり、ときどきヴォイスオーバーで展開する3人の他愛ない会話やつくり話である。『ニコトコ島』で映画が前へ進むためのとりあえずの推進力を担っていた「歩行」は、『石と歌とペタ』という作品では無目的にどこかへむかう旅になっている。
 映画の冒頭で、落書きのようなコンピュータグラフィックスの絵が示され、そこに3人の登場人物の自分紹介が順番にモノローグで被さる。

石 俺は石です。今は石ですが、元々は星でした。気がついたら星でした。
  長いあいだ、1人で真っ暗な宇宙にいました。
  気がつくと俺は隕石になっていて、知らない星の山に落ちました。
  山と合体して、俺は山になりました。それから長いこと、俺は山でした。
  あるとき、雨がずっと降り続きました。
  すごい土砂崩れがおきて、山が半分崩れました。俺は岩になりました。
  それからも色々あって、今はちっこい石です。
  では、俺の得意なつくり話をします。

 この「石」と名乗る登場人物が話す「つくり話」は、子どもが話すデタラメのようであるが、よく練られた絵本の物語のような深さを持つ。次に登場する「歌」という人物は、どんな言語にも属さないデタラメな言葉で、つくり歌をうたう。オドラデクが登場するカフカの掌編にも、こうした子どもが遊戯的につくりだす寓話のおもしろみがあった。そうはいっても、ただ遊んでいるばかりでは、それが小説作品になることも映画作品になることもないだろう。粘土をこねる手の指が、爪が、手のひらが素材と出会い、それを凹ましたり、尖らせたり、伸ばしたりして遊びながら、心のおもむくままにオブジェをつくりあげるように、それなりに練りあげる必要があるのだ。
 そのオブジェを見る者が「一体これは何なんだろう」「理由はわからないが強く惹かれる」というところまで、そのオブジェを端正に仕上げなくては美術品にはなれない。それは映画作品であっても同じことだ。『石と歌とペタ』を観て、わたしたちは「この遊戯的な作品に、一体何の意味があるのか」と自問する。その時点で、意味の病いに囚われていることを自覚しなくてはいけない。この作品に通底するテーマや文脈を追っても仕方がない。それは映像で形づくられたオブジェとしてあり、観る者の一人ひとりが自由に感じ分けできるところにまで作品として高められている。『ニコトコ島』をそのままのかたちで受け止め、『石と歌とペタ』を在るがままの姿で、心から楽しむことができるかどうか。試されているのは、わたしたち観客の感性の方である。
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