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「旅の途中、人間の途中、地球の途中、宇宙の途中」

土居伸彰(アニメーション研究・評論 /ニューディア代表)


『ニコトコ島』に初めて触れたとき、こんな映画は観たことがないと衝撃を受けたことを覚えている。
監督と音楽担当の映画のメインスタッフが本名そのままで登場し、フェリーに乗って遊んで、どこかの無人島のようなところに行って遊んで……基本的にはただ遊ぶだけのことしか起こらない映画だったことにまず驚いた。あまりにも天真爛漫で無邪気に動きまわり、自分たちの妄想の言葉も素直に口に出すがゆえに、なにか妖精の一種であるようにも感じられる彼ら三名の素性があまりにも謎めいていることには怖じ気づいた。彼らの関係は何なのか。彼らの目的はなんなのか。彼らは何のためにどこへと向かっているのか。(それらの疑問はどうやら本人たちも分かっていないことが後に判明することになるのだが…)全体的には、遊びと戯れのなかで、なにかの直接性をモロに浴びせられたという印象だった。
 一応、物語という媒介はあるものの、それが本質ではないことにも驚いた。途中、三人の根本的な関係性が変わる大きな出来事があるが、意外とすぐに立ち直り、最初のテンションにすぐさま戻る。平熱感というか、自然体感が半端ない。ただ、不思議だったのは、全体としては軽やかなのに、なんだかとんでもなく巨大なものに触れてしまったな、という感覚が残ったことだ。映画を観たというよりは、映画を通じて途方もないスケールの何かに触れてしまったかのような……根源的な体験をさせられた気がした。だが一方で、「根源的」という言葉はまったく似合わないくらいにとても軽やかなのだ。むしろ、軽すぎるくらいに。圧倒的で軽やかで……まるで自然現象のような映画。

 『ニコトコ島』はミニマムで飾らない映画である。フォーマットは4:3で、白黒で、カメラも固定で、登場人物は三人だけで、ときどき素朴な声と素朴なセリフと素朴な音楽がかぶさるだけ。でも、形式めいたものを少しも感じさせない。とてもシンプルで、あるべきものがあるという虚飾のなさがある。しかし、信じがたいほどに豊かさも感じさせるのである。いま「シンプルなのに」と言ったが、その豊かさはおそらく「シンプルだからこそ」手に入れられるものなのかもしれない。制限されているからこそ、観客の想像力は画面に囚われすぎずに羽ばたいて、画面に写っているもの以上のなにかを感じさせるのだ。
 たとえば三人は、人間でありながら、人間ではないものに変身していく。遊びのなかで役割を変えたりする小さなレベルから始まって、無人島で眠りのなかで果物に変わったり、原住民になったり、もしくは死人になったり、爆発したりする。画面に写っているのはもちろん人間だが、そうではないように感じられてくる。「ぼく、人間じゃないねん」と突如として発せられる告白のセリフがあまりにもはまっている。じゃあ、なんなのか? その答えはわからない。人間じゃないことだけはたしかなのだが、だからといって何なのかはわからない。白黒で、長尺のショットが続き、ドラマチックなことは何も起こらないなかで、観ている私たちの意識は漂白され、その余白が空想の余地を残すなかで、彼らはあらゆるものになる可能性を得るのだ。人間三人だけで、他には誰もいないこともそれを助けるだろう。彼らの妄想が暴走するとき、それをツッコむ人が誰もいないので、彼らの変身遊びは際限なく続いてしまう。かくして、彼らの存在はやはり人間以外のものへとすり抜けていき、そして戻らない。
 彼らは結局、自然の存在に近づいていくのではないか。映画のなかで語られる印象深いエピソードがある。人間の顔に似た石を見たという話だ。悠久ともいえるくらいの長い時間をかけて、石が偶然、人間に理解できるかたちをとる……その時突然、自然と人間の回路が開かれる。ただ、それと同じようなことが人間側にも言える気がしてくる。三人は、悠久のリズムを感じさせるこの映画のなかで、自然が理解できるかたちに次第に変形していくかのような……両者はかくして通電する。自然のなかにいても、『ニコトコ島』はその厳しさをまったく感じさせない。なぜならば三人は、自然と対立していないからだ。むしろ、その仲間となっている。それゆえに彼らは死を恐れる必要がなくなるし、無理に人間でいつづける必要もなくなる。

 『ニコトコ島』と比べると、『石と歌とペタ』はだいぶ騒がしい。前者が静だとすれば後者は動である。まず、色がついている。(限られた色とはいえ。)そして、冒頭にはアニメーションらしきものも入る。(でも、プリミティブなドローイングで、アニメーションもまた原始的であるのだが。)カメラも動くし、登場人物たちに動かされもする。
 もうひとつ違うところがあるとすれば、登場人物自体は相変わらずの三人なのだが、名前が違っているということだ。ここで三人は本名を名乗らず、石という無生物、歌という非物質、ペタという謎のものになっている。しかし彼らがその名前のものへと変身しているのかといえばそうではない。『石と歌とペタ』は『ニコトコ島』と同じく三名の目的なき旅を描くが、こちらではラーメンを食べたり、車を運転したり、かなり「ロードムービー」している。彼らは明確に人間である。『ニコトコ島』に比べれば、浮世離れはあまりしていない。むしろ、豪族が日本を蹂躙するかのごとく、彼らは人間として荒ぶる。石を投げ、植物を切り、木を揺さぶり、ある種暴力的に世界と関わっていく。自然を従えようとする。それはまるで、人間の力によって、この世界に、地球に、宇宙に、揺さぶりをかける試みのようである。
 だが、『石と歌とペタ』で最も荒ぶっているのは言葉である。それによって彼らは、見えている世界を捻じ曲げ、自分自身を変形させる。冒頭で「作り話をしよか」という石と歌。漂白されたビジュアルでそれらがぼそりとつぶやかれるとき、「元々は星でした」という石の言葉は本当に思えてくる。「いろんな歌です」という歌の言葉も本当になる。やはりここでも、ミニマルなスタイルが効いてくる。彼らが劇中で発する言葉が途方もない説得力を持ち、すさまじい変形力を発揮する。言葉によって、宇宙が一瞬で数億年もの月日を経る。彼らは言葉で存在を抽象化させ、巨大なスケールを得る。

 『ニコトコ島』は無為で、逆に『石と歌とペタ』は作為である。だがどちらも最終的には、人間のスケール感を変え、宇宙や自然と一体化させる。『ニコトコ島』の蟻の巣のシーンを思い出す。大力くんが冷たくなって爆発したあと、残された二人はアリの巣とアリをみて、「すごいな」と感嘆をあげる。それは、「いらんことしないからやろな」という作為のなさに対してであった。でもすぐに、「いらんことしてるやつもおる」と彼らは意見を反転させる。見え方が変わったように見えるが、実際には、そのどちらもが、大きなスケールから眺めたときの変奏なのだ。アリ本人たちにとっては大きな違いだとしても、結局はちょっとした差異なのだ。
 大自然や大世界のなかで遊び回る大力・三浦作品を観ることは、アリの巣とそのまわりのうろつくアリたちを眺めるようなものである。宇宙という現象のなかで、人間がどういうものなのかを見せる。自然と一致させることで、この宇宙で「いらんこと」をしたりしなかったりする人間の姿。「いらんことをしない」(『ニコトコ島』)ことも、「いらんことをする」(『石と歌とペタ』)ことも、大きな流れのなかで見ればどちらも変わらない。すべての違いは細かなもので、これでもいいし、どれでもいい。
 『石と歌とペタ』で、ペタは、もっといい名前があったら変えると言っていた。ペタは作り物で、誰も使っていない言葉なので、変えても問題ないからだ。一方で、石とか歌といった名前はかなり良いもので、みんなも気に入って使っているので、きっとしばらくは変わることはないだろう。でも、それらもおそらく、変わっていいのだ。それは映画も然りである。もっといいのがあったら変わってしまっていいはずで、大力三浦作品は、その候補のひとつである。彼らの映画は、観たことのない映画である。でも、それは、映画には、こんなふうなものもありえる、ということを示すものなのだ。宇宙という現象とそのなかの人間の営為をこんなふうに、軽やかに、ユーモラスに描ける力が映画にあるのだということを。
 彼らの映画を観ていると、人間だって、地球だって、宇宙だって、もっといいのがあったら、変えてしまっていいのではないかと思わされる。そのためにも、彼らの映画の時間を楽しむのがいい。作為だとか無作為だとか、フィクションだとかノンフィクションだとか、遊びだとか真剣だとか、そんなことは気にせずにいられるようになる。そんな細かい区別は、アリの巣とアリのように、遠くから見たらどちらがどちらかわからない。そうなると、もっと良い名前へ、もっと良い存在へ、自分自身を変えていくための旅に出たくなる。それは無限にいつまでも続く旅で、どこに行くのかなんてわからない。自分をどんな存在か決めつけるのもまだ待っていいし、物語も、人生も、地球も、宇宙も、まだ始まったばかりで、その途中。大力・三浦作品は、そんなことを考えさせる。
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