イントロダクション
根源的な問いを軽やかに問い続ける、知られざる奇才、大力拓哉&三浦崇志
2007年のデビュー作『タネ』からコンビを組み、以降2人組映画監督として旺盛に作品を発表し続けてきた大力拓哉と三浦崇志。
イメージフォーラムフィルムフェスティバルで大賞を受賞し、ロカルノ国際映画祭コンペティション部門に招待された『ニコトコ島』(08)は、細緻な構図によるモノクロームのヴィジュアルが圧倒的。
行間に存在論的な問いをひそませる軽妙な大阪弁のダイアローグを織り成しながら、三人の男がフェリーに乗って謎の島を旅するというただそれだけの物語に、なぜわたしたちは息を飲まずにはいられないのか。
ローマ国際映画祭で招待上映された『石と歌とペタ』は一転してビビッドなカラーに転じ、三人が「どこかへ向かう」ロードムービー?だ。「石」と「歌」そして全く正体不明の「ペタ」と名乗る者たちがそこに居て、言葉を発し、動くだけで、常に大きな問いが生まれ続ける過程は、ゆるやかなトーンとは相反してエキサイティングだ。
高い評価にもかかわらず国内では映画祭以外ほとんど上映されてこなかった彼らの作品がついに一般上映解禁。世界でも類を見ないオリジナリティを発揮し続けている大力拓哉&三浦崇志の作品は、引き延ばされた無為の時間に遊びながら、「生きる意味とは何か」「死とは何か」という根源的な問いを、いたって軽やかに問い続ける。
イメージフォーラムフィルムフェスティバルで大賞を受賞し、ロカルノ国際映画祭コンペティション部門に招待された『ニコトコ島』(08)は、細緻な構図によるモノクロームのヴィジュアルが圧倒的。
行間に存在論的な問いをひそませる軽妙な大阪弁のダイアローグを織り成しながら、三人の男がフェリーに乗って謎の島を旅するというただそれだけの物語に、なぜわたしたちは息を飲まずにはいられないのか。
ローマ国際映画祭で招待上映された『石と歌とペタ』は一転してビビッドなカラーに転じ、三人が「どこかへ向かう」ロードムービー?だ。「石」と「歌」そして全く正体不明の「ペタ」と名乗る者たちがそこに居て、言葉を発し、動くだけで、常に大きな問いが生まれ続ける過程は、ゆるやかなトーンとは相反してエキサイティングだ。
高い評価にもかかわらず国内では映画祭以外ほとんど上映されてこなかった彼らの作品がついに一般上映解禁。世界でも類を見ないオリジナリティを発揮し続けている大力拓哉&三浦崇志の作品は、引き延ばされた無為の時間に遊びながら、「生きる意味とは何か」「死とは何か」という根源的な問いを、いたって軽やかに問い続ける。
「ぼくら、じつは何もわかってないんちゃうん?」「そうかもしれんなあ」
大力&三浦作品は一貫して変である。しかしその「変さ」を語るのはひどくむずかしい
大力&三浦作品は一貫して変である。しかしその「変さ」を語るのはひどくむずかしい
彼らの映画に流れているのは、ただおしゃべりをしてただ遊蕩する「無為」の時間であり、山や川や岩場や道は、そのためのかりそめの空間としてあたえられているにすぎない。にもかかわらず、いやだからこそ、彼らの空間把握は圧倒的であり、およそ写真のように完結している。ふたりのカメラが「石」や「岩」という鉱物に固執するとき、写真的空間はいっそうその「静」、あるいは「死」の主題を強くするだろう。
大力&三浦の映画の人物にとって、「生きていること」と「死んでいること」はほとんど等価であり、そこでは人は石や岩のように、生きながら死に、死にながら生きている。そしてその「在る」ことのふしぎさを、「ぼくら、じつは何もわかってないんちゃうん?」と『ニコトコ島』(2008)の男は云うのだ。このような存在論的ともいえる問いを、けれども彼らはいたって軽やかな話体で展開する。ゆるりとした大阪弁のそこはかとない可笑しみが、これまでの全作品をつらぬく独自の魅力になっている。
全作を貫通する彼らの死生観、存在論は、観客に明確な答えは与えてくれず、悪く言えばほったらかしだ。問題は提起した、僕達は映画を作る、あなたはどうする?と問いかけてくる。ただ映画をみているだけでは衝撃も衝動もあたえてはくれない。
彼らの作品は一貫して変である。しかしその「変さ」を語るのはひどくむずかしい。だからこそ大力&三浦の映画は重要なのだ。
大力&三浦の映画の人物にとって、「生きていること」と「死んでいること」はほとんど等価であり、そこでは人は石や岩のように、生きながら死に、死にながら生きている。そしてその「在る」ことのふしぎさを、「ぼくら、じつは何もわかってないんちゃうん?」と『ニコトコ島』(2008)の男は云うのだ。このような存在論的ともいえる問いを、けれども彼らはいたって軽やかな話体で展開する。ゆるりとした大阪弁のそこはかとない可笑しみが、これまでの全作品をつらぬく独自の魅力になっている。
全作を貫通する彼らの死生観、存在論は、観客に明確な答えは与えてくれず、悪く言えばほったらかしだ。問題は提起した、僕達は映画を作る、あなたはどうする?と問いかけてくる。ただ映画をみているだけでは衝撃も衝動もあたえてはくれない。
彼らの作品は一貫して変である。しかしその「変さ」を語るのはひどくむずかしい。だからこそ大力&三浦の映画は重要なのだ。
もう10年近く前のことだ。
彼らの映画を観て、感嘆した。
こんな映画、作れやしないと思った。同時に、忘れていた大事なものを、思い出させてくれた。
映画作りに、自由はない。そう思っている。
インディーズで映画を作るときは、尚更だ。
なのにどうだろう。彼らは、一貫して自分たちの作りたい映画を自由に作っているかのように見える。
しかも、彼らにしか作れない映画を!
こんなに素晴らしいことはない。
小林政広(映画監督)